History

大和屋シャツの歴史

ワイシャツの語源諸説ございますが…
ワイシャツの語源は大和屋シャツ店の創始者から

1873年(明治6年)、横浜。海港と維新の熱気がまだ渦巻いていた。

寄港中の外国船に乗船していた西洋人が18歳の日本人青年に衣服を譲り渡した。異国の服は白い生地で、胸に留め具(ボタン)が付いていた。

西洋人はこう言った。「ワイシャツ」。
青年にはこう聞こえたのだ。

実は白いシャツ、「White shirt」だった。日本のワイシャツ発祥物語がここにある。

日本人青年の名は、石川清右衛門 (1855~1936)。
初代は文明開化の地、横浜で現在の輸入雑貨店にあたる唐物屋(とうぶつや)を経営、清右衛門は店を手伝った。ワイシャツを手にしたのはそのころだ。

石川清右衛門は入手したワイシャツを解体し、また縫い直す。これを繰り返して構造を学んだ。生地を裁断し、ワイシャツを自作した。

当時の生地はカナキンという木綿の布で水につけるとかなり縮んだ。石川清右衛門は生地を水洗いし、乾燥させ、縮ませてから裁断する工夫を考案した。

大和屋シャツ店創業欧米さながらの町並みの中に…

1876年石川清右衛門は独立し、関内・弁天通りに日本初のワイシャツ店を開店した。

創業148年を迎えた「大和屋シャツ店」第一号店だ。

屋号の由来は不明。

が、商標には翼の生えた鐘のほか、日の出が描かれていることから「日出ずる大和の国を意味したのでは」と推測する子孫もいる。

往時の弁天通りは、大和屋がそうだったように、横文字の看板を掲げた商店が立ち並んで、居留外国人が行き交い、欧米さながらの街並みだった。

大和屋は近在にあふれる外国人相手に商売をした。
生地は群馬県の桐生で作らせていた。

さらに、米国人リヨン・J・ルーベンスの知己を得たことで海 外へと進出。大正時代には、銀座、神戸のほかニューヨーク、中国の天津に支店を持つまで発展した。

横浜は貿易拠点として、世界に開かれた窓だった。

錚々たる顧客の顔ぶれ天皇陛下、アメリカ大統領も顧客に

ラフカディオ・ハーン’(小泉八雲)や、32代米国大統領となるフランクリン・D・ルーズベルトも顧客だった。
当時、日本人客はごく少数だったが、その中に明治、大正天皇がいた。

後継ぎの石川正七(1888~1982)は後年、こう述懐している。

「大正天皇のご用を受けた時、銀座の支店長が採寸にうかがった。といっても、直接寸法を取ることなどできず、3メートルくらい離れたところから見当をつけて測った。えらい時代だった。」

戦時下の大和屋シャツ「平和産業」として業務停止命令が下る

清右衛門は1936年(昭和11年)死去。
自ら研究、製造を始めたワイシャツだったが、一度も袖を通さず、和服で貫きとおした81歳の生涯だった。

大和屋はその後、清右衛門の長男、石川正七の代に苦難の時代を迎える。

正七の六男で、前大和屋シャツ店専務の石川哲夫がこう語っている。

「戦時下1943年(昭和18年)の企業整備令で、国内の産業は軍需一本に絞られ、大和屋は『平和産業』として営業停止になりました。そして2年後の5月 29日、横浜大空襲ですべてが失われました。父の正七と二人、三渓園の入り口わきに身を潜めてB29の攻撃から逃れた後、丘に上って大和町を見下ろすと、 町は一面の焼け野原でした。関東大震災でも軽い被害ですんだ工場と邸宅が、跡形もなくなっていました。弁天通りの本店も・・・」

大和屋シャツ店再興銀座本店の誕生と今後の大和屋

1945年(昭和20年)の横浜大空襲で店と工場を失い、危機にひんした大和屋の最後の切り札、それは、創業者の石川清右衛門が残した横浜市中区大和町(町名は屋号を由来とする)の土地だった。

石川正七は大和町の土地の一部を売って事業復興費を捻出した。大和屋は1953年(昭和28年)に再興を果たす。が、それは横浜ではなく、東京・京橋だった。

その4年後、正七は銀座6丁目に本店を構えた。時代が流れ、商売の相手が日本人となれば、中心はやはり東京。海外輸入の拠点だった横浜の役割からのバトンタッチだった。

6代目現社長、石川成実は語る。

「オーダーメイドの先駆として、今後も本物のシャツを作り続けます。」

激動の日本において変わらないシャツ屋がここにある。